先日『駅ピアノ』というテレビ番組を偶然観た。神戸のとある駅の一角に誰でも自由に弾いて良いピアノが置いてあって、老若男女が思い思いに好きな曲を弾くという40分くらいの番組。
自分が何も楽器ができないのでピアノを弾けることが羨ましいし、公共空間に使われなくなったピアノを置いた鉄道会社がいいなと思うし、何かをピアノを通して表現したいっていう人がカッコいいし、ただいろんな人が来てピアノを弾く様子をそれなりに長い尺の番組として放送したBSNHKがすごいなといろいろ感激して久しぶりにじっくりテレビを観てしまった。
奥さんに聞くといつもは15分くらいの番組で、ピアノが置いてある海外の駅とか空港で同じように自由に弾いてる人の様子を撮影している番組らしい。それでたまたま観たのが日本初の神戸での回だったようだ(昔からこの番組が結構好きと知り驚き)。
堂々とストリートでパフォーマンスができる人はどんな場所でもできるだろうけど、何かちょっと表現したいっていうひとのための場所ってあまりないなと思う。
そういう意味で神戸の駅のピアノを置いてある場所が絶妙な場所で(ホームへ続く階段と改札の間のなんとも言えない広い通路の端っこ)、弾きにくる人たちはそそくさと現れ、終わったらさらっと立ち去るその感じがいろんな意味でちょうど良い感じ。
坂牛さんの「流れと淀み」理論で言えば、駅という常に流れを生み出している空間に、今回ピアノが置かれていたような淀みの空間があることでピアノを弾いても良いかなという心地よさを生み出していたように感じた。
公共スペースについていろいろ考えさせられた。